バッハ考1・イントロダクション(バッハへの個人的なアプローチ)
ドイツに来る以前、東京の下北沢近辺に約1年ほど住んでいた。
大学卒業後すぐの3月20日には京都から東京に移った。すこしでもはやく東京に行きたかった。もともと活動の場所は東京と決めていた。何をするか、それは行ってから考えることにしていた。
みゆき荘という木造トイレ共同、風呂なしの下宿を借りた。家賃は3万4千円世田谷区では破格に安い。大家さんのおばあさんが1階に住み、2階を間貸ししている。小奇麗な部屋でかなり感じがよかった。周りの環境もよく、近くには梅が丘公園という大きな公園があり、いつもそこに出向いた。その公園の中には図書館があった。なかなか粋だとおもう。そういえば世田谷区の図書館は全部まわった。ひとつの会員カードでどこの図書館でも使える。とくにCDを借りるため図書館をはしごした。
東京に出て、まずはいんちきな代々木の音楽専門学校で講師のようなものをやり、それを辞めたあとは留学生会館というところで宿直事務員をやった。そこでドイツ人のエリーザやオーストリア人のクラウスに出会った。かれらから時々ドイツ語を習った(ブラームスのRは痰ををはくときにカーとするようにだとか・・・)(ちょっと汚い)(土曜日はSamstag,クラウスはオーストリア人なのでサムスタークと教えてくれた。標準ドイツ語ではSはザとなり、ザムスターク)。かれらとの出会いは本当に大きかった。
東京にいるときは特にブラームスの室内楽曲をよく聴いた。それから武満徹。武満徹は東京の人だ。生後すぐに満洲に渡って、そこで幼年期を過ごしているが、自分は彼の美学が東京の人のものだと感じる。あの繊細さと甘美性にあこがれるのはやはり自分が地方出身者だからか。とくにその部分に魅力を感じるのはそうかもしれない・・・
とにかく武満に憧れていた。
11月だった世田谷文学館というところで、瀧口修造と武満徹展というものが開催されていた。瀧口修造は詩人で、武満が父のように慕った人である。また武満の初期の創作発表の場、実験工房は瀧口のもとに集まってきた芸術家たちによって作られたグループだった。なんとか武満に追いつきたい・・・武満ファンの自分は夢中で彼の軌跡を探した。大岡信という詩人が瀧口修造と武満徹展の一環イベントとして、瀧口修造についての講演を行いそれに自分も参加した。大岡は武満と親しい間柄だった。だから彼から沢山の武満の話が聞けることを願い、夢を描いてかれに近づいたのだが、その想いは嫌なかたちで崩れた(あえて詳細は述べないけども)。それは大岡信が悪かったのではないと思う。もちろん自分が悪かったのではない。ただ、そこには新しい関係は生まれないという事実だった。その日はなにかの転機だった。夢から覚めたような。武満徹を越えていかなければ、そしてその日の出来事が東京を離れようと決意のきっかけとなった。
当時は新しい現代音楽の表現方法を学び、その技法を用いて作品を書くことにまったく興味が持てなかった。もうそんな音楽活動ならやめようと思っていた。そんな自分も武満徹の音楽と創作活動には興味を持っていた。それはむかし彼の音楽を聴いたとき心奪われたから、これは理屈ではない。
もしも本気で音楽をやり、作曲をするならどうすればいいのか。真剣に考えていた。
武満徹にとってバッハのマタイ受難曲は特別なものだった。
かれはバッハの音楽を彼の生きる支えにしていた。
やはりもう一度バッハから始めなければならない。無理は承知でドイツ行きを決意した。
もう一度バッハから・・・
これがドイツに来た大きな理由の1つであった。
N.O |